加太軽便鉄道
今日は前回のセミナーの続きで、特に加太に運行されていた鉄道(加太軽便(けいべん)鉄道を中心に話を進めます。
今日はどうしたことか、写真もどこかに行ってしまい、しかも昔出来たコピー・貼り付けも出来ないというまことに寂しい限りです。
以下ご面倒でも文章が中心となりますので、ご協力のほどお願いします。
出来た当時始発駅だった北島駅(海草郡野崎村字北島)に停車中の電車です。
上は前回の時に登場して頂いた、コメンテイターの利光社長と寺本先生です。下は河北コミセンと、初期に営業していた頃の路線図です。
車両は751と言います。 1957年頃
ここで少し長くなりますが、軽便(けいべん)鉄道についてお話します。
明治政府は閉鎖的社会を変革し、産業を盛んにするには鉄道が必要と考えられまず汐留~横浜間、京都~神戸間に鉄道が敷設されます。官設が基本方針でしたが財政難や民間の企業意欲の高揚もあり、1881年に(明治14年)に半官半民の日本鉄道が設立されました。
続く私設鉄道敷設に対応するために1887年(明治20年)に私設鉄道条例が制定されます。
所が政府は私設鉄道を認める一方様々な条文で支配します。
最初は軍関係輸送の半額性、運賃規制、軌道間h1067mmや25年後に国が買上権がありました。また1900年(明治33年)制定の私設鉄道法で支配がなお強くなりました。
民間の鉄道事業はなえましたが、国に地方鉄道を敷設する経済力はなく。制度を緩めます。
条文も8個条に減り手続きは簡単になります。運賃や施設の条件もなくなり罰則もありません。こうして全国に多くの軽便鉄道が誕生したのです。
皆さん方のお住まいの所でも〇〇軽便鉄道がお傍を走っていたのをご存じの方もおられるでしょう。
和歌山では山東軽便鉄道、野上軽便鉄道、御坊軽鉄道、有田軽便鉄道などがありました。
現在加太線を走っている”鯛電車”です。
今年の6月で107年を迎えます。写真はありませんがこれまでの歴史を書いておきます。
1909年(明治42年)に新軽便鉄道法に申請の変更する。
1911年(明治44年)に加太軽便鉄道(株)設立・・・社長・垣内太郎氏
1912年(明治45年)加太~和歌山口駅間開通・営業開始
1913年(大正2年)和歌山市駅への延伸許可申請
1914年(大正3年)加太~和歌山口駅完成(和歌山市駅の北側)
この間紀ノ川橋梁完成(河西橋)
1930年(昭和5年)東松江駅と西庄駅の開業
加太電気鉄道と社名変更
1942年(昭和17年)南海鉄道が加太電気鉄道を吸収合併・加太線と呼称
住友金属和歌山製鉄所開所
1944年(昭和19年)関西急行鉄道と合併・近畿日本鉄道となる
松江線」(紀ノ川駅~松江間)貨物輸送開始(住金用の物資を運ぶ)
1947年(昭和22年)近畿日本鉄道から南海電気鉄道が分離
1950年(昭和25年)松江線にて旅客輸送始まる。
ジェーン台風にて河西橋が被害にあい運行ストップ
1953年(昭和28年)集中豪雨による被害甚大で来河西橋の橋脚1基が傾く
和歌山市駅~北島間は営業休止
1957年(昭和32年)和歌山市が買上げていた紀ノ川橋梁が完成(河西橋と命名)
1966年(昭和41年)島橋~北島間を廃止
以降加太線は和歌山市駅~加太駅までの12.6㌔を言う。
最後になぜ加太線(加太軽便鉄道を追いかけているかと申しますと、古くは奈良時代には
淡島神社は同系のお宮さんの総本山として崇められていたこと。
同じく奈良時代には奈良の都から勢力の行き届く場所に5街道を設けて、その一つが
”南海道”として多くの人の通行する道だった。
役人が加太の港から、淡路、鳴門そこを経て伊予の方にまで行っていたという。
加太には多くの軍事施設が作られていたこと。
善人のみならず悪人もいたので、当時としては目立つ立派な警察署があった。
加太からは逆に新鮮な魚や貝それと野菜を和歌山市内に運ぶ輸送が必要だった。
そういった要因を考えると今は寂れてきた加太線を又加太の町を盛り上げる必要があると思います」。
今日はどうしたことか、写真もどこかに行ってしまい、しかも昔出来たコピー・貼り付けも出来ないというまことに寂しい限りです。
以下ご面倒でも文章が中心となりますので、ご協力のほどお願いします。
出来た当時始発駅だった北島駅(海草郡野崎村字北島)に停車中の電車です。
上は前回の時に登場して頂いた、コメンテイターの利光社長と寺本先生です。下は河北コミセンと、初期に営業していた頃の路線図です。
車両は751と言います。 1957年頃
ここで少し長くなりますが、軽便(けいべん)鉄道についてお話します。
明治政府は閉鎖的社会を変革し、産業を盛んにするには鉄道が必要と考えられまず汐留~横浜間、京都~神戸間に鉄道が敷設されます。官設が基本方針でしたが財政難や民間の企業意欲の高揚もあり、1881年に(明治14年)に半官半民の日本鉄道が設立されました。
続く私設鉄道敷設に対応するために1887年(明治20年)に私設鉄道条例が制定されます。
所が政府は私設鉄道を認める一方様々な条文で支配します。
最初は軍関係輸送の半額性、運賃規制、軌道間h1067mmや25年後に国が買上権がありました。また1900年(明治33年)制定の私設鉄道法で支配がなお強くなりました。
民間の鉄道事業はなえましたが、国に地方鉄道を敷設する経済力はなく。制度を緩めます。
条文も8個条に減り手続きは簡単になります。運賃や施設の条件もなくなり罰則もありません。こうして全国に多くの軽便鉄道が誕生したのです。
皆さん方のお住まいの所でも〇〇軽便鉄道がお傍を走っていたのをご存じの方もおられるでしょう。
和歌山では山東軽便鉄道、野上軽便鉄道、御坊軽鉄道、有田軽便鉄道などがありました。
現在加太線を走っている”鯛電車”です。
今年の6月で107年を迎えます。写真はありませんがこれまでの歴史を書いておきます。
1909年(明治42年)に新軽便鉄道法に申請の変更する。
1911年(明治44年)に加太軽便鉄道(株)設立・・・社長・垣内太郎氏
1912年(明治45年)加太~和歌山口駅間開通・営業開始
1913年(大正2年)和歌山市駅への延伸許可申請
1914年(大正3年)加太~和歌山口駅完成(和歌山市駅の北側)
この間紀ノ川橋梁完成(河西橋)
1930年(昭和5年)東松江駅と西庄駅の開業
加太電気鉄道と社名変更
1942年(昭和17年)南海鉄道が加太電気鉄道を吸収合併・加太線と呼称
住友金属和歌山製鉄所開所
1944年(昭和19年)関西急行鉄道と合併・近畿日本鉄道となる
松江線」(紀ノ川駅~松江間)貨物輸送開始(住金用の物資を運ぶ)
1947年(昭和22年)近畿日本鉄道から南海電気鉄道が分離
1950年(昭和25年)松江線にて旅客輸送始まる。
ジェーン台風にて河西橋が被害にあい運行ストップ
1953年(昭和28年)集中豪雨による被害甚大で来河西橋の橋脚1基が傾く
和歌山市駅~北島間は営業休止
1957年(昭和32年)和歌山市が買上げていた紀ノ川橋梁が完成(河西橋と命名)
1966年(昭和41年)島橋~北島間を廃止
以降加太線は和歌山市駅~加太駅までの12.6㌔を言う。
最後になぜ加太線(加太軽便鉄道を追いかけているかと申しますと、古くは奈良時代には
淡島神社は同系のお宮さんの総本山として崇められていたこと。
同じく奈良時代には奈良の都から勢力の行き届く場所に5街道を設けて、その一つが
”南海道”として多くの人の通行する道だった。
役人が加太の港から、淡路、鳴門そこを経て伊予の方にまで行っていたという。
加太には多くの軍事施設が作られていたこと。
善人のみならず悪人もいたので、当時としては目立つ立派な警察署があった。
加太からは逆に新鮮な魚や貝それと野菜を和歌山市内に運ぶ輸送が必要だった。
そういった要因を考えると今は寂れてきた加太線を又加太の町を盛り上げる必要があると思います」。





この記事へのコメント
よく調べられましたね。
その結果を、こうしてブログに記事として
留められると良い資料となりますね。
ついに学者の仲間入りされました!
お疲れ様でした。
前にもお話したことがありますが、
遊び心でコメントをしたと
中央の会員用の所をクリックしませんか?
するとのんさんの素晴らしいブログが
全国のブロガーに知れ渡るという!
欲のないのが惜しい。
無かったですね。勉強になりました。(^^♪
大分調子が戻ってこられたようですね。
やはりお若いので楽しみだ。
裁判員の候補者になるのも確率が!
やはりお人柄でしょうね。
和歌山には5街道が通っていましたので、
その昔はビッグシティーだったのですよ。